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曖昧な快楽 ※『ゆれる』再考 [邦画]

映画の前に本屋に寄ると「映画芸術」417号が売っている。目次を見ると「日本映画批判集中討議」という題で「『ゆれる』にゆれる」という座談会が載っている。読み始めると面白いのでつい購入。発言者は一名を除き四人が荒井氏を含む脚本家。みな『ゆれる』には批判的らしい。ただ脚本家らしくシナリオの欠陥を緻密に指摘するというよりは、事故であったのか兄の殺人であったのかが曖昧、裁判をきちんとやっていないのが問題、八ミリの出し方が下手、などちょっと映画を観ている人なら誰でも気づきそうなことが多かった気がする。
面白いと思ったのはやはり荒井氏で「俺だったら、刑務所の後は吊り橋にシーンを持っていくけどね。刑務所ですれ違いにやって、弟が探していくと吊り橋に兄貴がいるんだよ。そこで、七年前みたいなシチュエーションにして、兄貴が弟に「なんであんな証言したんだ」みたいなことを言って、何だかんだあるうちに、高所恐怖症の兄貴が橋から足を踏み外して、弟が兄貴の腕を掴んで助けようとするんだけど、兄貴は結局川に落ちる。・・」という発言は、『ゆれる』を「火曜サスペンスの出来損ない」と断言する荒井氏らしく、情景が目に浮かぶようで、確かにそういう火曜サスペンスがあったら面白そうで観てみたい(笑)と思った。
ドキッとしたのは「男の兄弟ってあんなじゃないよ」という発言。これは確かに私もちょっとそう思わないでもなかったのだ。この映画にある嫉妬やあてこすりや奸計、それの反動のお互いの兄弟愛、が女性の専売特許だとは言わないが、この映画ほどの度数であるとやはり女性的である印象は拭えない。しかし女性の監督が自身の投影として兄弟を描いているのだから、「男の兄弟ってあんなじゃないよ」と言うこと自体に何か意味があるのか、という気がしないでもない。
まぁ全体的に文句を言いたくなるのは勿論わかるけど・・、という感じ。先日東京国際で観たヤンヤン・マクの『八月的故事』のティーチ・インの時のある男性の発言を思い出した。その男性は「俳優ならドラマティックな役をやりたいと思ってしまうと思うのですが、この映画のように何も起こらない映画だと、そのへんが消化しきれないと思うのですが、どうやって説得したんですか」みたいな質問をしたのだ。監督や俳優たちはにこやかに「水面下ではホントにいろんなことが起こっている映画なんですよ・・」と説明していたが、鑑賞後とても豊かな気分でいただけに、結構驚いた。
何が言いたいかというと、男性と女性の捉え方の違いなのではないかということ。確かに『ゆれる』は事故か殺人かを一貫して曖昧にし、それを裁判でも裁かない、批判する隙のある映画であろう。女が殺され、兄は七年もブチ込まれ、そこまでして映画が得たものが弟の泣きそうになりながら叫ぶ姿と、兄の笑顔だけだったとしたら。許せない、という言い分もわかる。でもなぁ、その姿と、笑顔が、とても良かったんだもの。そう思ってしまうのが女性ではないのかな、という気がするのだ。
『八月的故事』だって確かに、女の子がバイト先の洋服屋で出会った男の子と、いい雰囲気になるものの、何も起こらず、結局告白も「私のことを忘れないで・・」みたいなセンチメンタルなものだし、「何も起こらない」と言われてしまえば、確かに「何も起こらない」のだ。
でも殺意があったりなかったり、憎んだり愛したり、自分のものだったり自分のものじゃなかったり、通常線を引かないとやっていけない線引きの両側にあるものこそ、本当は曖昧で、いつも揺れ動いていて、実はその、狭間にいることこそが、最も豊かで、贅沢なことではないか、という気がするのだ。泣きそうになりそうになりながら叫ぶ弟と、つい顔が綻んでしまう兄を交互に観る悦楽。触れそうで触れない、女の子と男の子の肉体の狭間に存在できる悦楽。
女性監督だけがその悦楽を手に入れられる、わけではないと思うのだが、なんとなく「男性には分からないのかしら・・」と呟いてしまう。
関連記事 ゆれるhttp://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-07-16
       小説版「ゆれる」http://blog.so-net.ne.jp/miyukinatsu/2006-10-28
       


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