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ドキュメンタリーの修辞学 [書評]

今取っているドキュメンタリー講座に是枝裕和監督がいらした時、佐藤真監督の著作「ドキュメンタリー映画の地平ー世界を批判的に受けとめるために」を右手に抱えて「みんな、これ読んだ」「あれ、こんだけしか読んでないの。なんで?」と詰問され、あたふたと購入。「ドキュメンタリー映画の地平ー世界を批判的に受けとめるために」よりは読みやすく、比較的最近の書き物を集めた「ドキュメンタリーの修辞学」から読了。

読みながら、何故自分が昨年の夏くらいからドキュメンタリーに傾倒するようになったのか、ずっと頭の隅にひっかかっていた疑問が解けるような気がした。佐藤監督は、「ドキュメンタリーは世界を批判的に映し出す鏡である」と言う。「さいわいなことに、キャメラとは人間の眼差しとは違って、目の前の出来事を機械的に忠実に記録する<もうひとつの眼差し>だったのである。その冷徹な機械的再現力にこそ、ドキュメンタリーが世界を批判的に映し出す鏡となりうる原理があるのだ」(「ドキュメンタリー映画の地平」より)

『絶対の愛』だって『パラダイス・ナウ』だって『ブラック・ブック』だって『デジャヴ』だって『13/ザメッティ』だって観てるんだけど。上手い俳優や練られた脚本や的確な演出・・いいんだけどさ、でもそれって何か「ごっつあん」って感じ。そうじゃないものが欲しい、何かが足りないと思ってしまう。それは監督さえも想像しなかったもの、偶然映りこんでしまったもの、そんなもの。まさに、「キャメラは人智を超える」のだ。

現在日本で活躍中のドキュメンタリー監督の著作を読んだり、お話を聞いていると、最初からドキュメンタリーを目指していた人は少ないことに気づく。森達也監督、是枝裕和監督は最初はフィクション志望で、森監督は成り行きでドキュメンタリーを撮ることに、是枝監督はやっているうちに面白くなってきた、と語る。佐藤真監督は「映画監督になろうと思って映画に関わったことはなくて、『阿賀に生きる』という映画を撮ろうと思って映画を志した」と語る。

現在はフィクション作品が増えている是枝監督は、「フィクションは、ドキュメンタリーを撮っている時のような、ドキドキする瞬間があまりない」と率直に語る。ドキドキする瞬間・・なんかそれってわかる気がする。何故なら、ドキュメンタリーを観ている時って、観客の私たちも一緒にドキドキするから。監督との一体感、それもドキュメンタリーの魅力かもしれない。

ドキュメンタリー監督のお話は面白い。妻に泣かれても、子供を路頭に迷わせるかもしれなくても、撮らずにはいられない闘いの日常。何か、みんなどこかで「臨界点」を超えてしまったのだろうな、と思わせる。それは私も思い当たる。私は「撮ること」ではなく、「書くこと」でだけど。なんか一線を超えてしまったな、と思い当たる時期がある。監督たちは皆、「大義やイデオロギーが失われ、ドキュメンタリーが撮りにくい時代。私的なものに走るしかないけど、その中でいいものは稀だ」などと悲観的なことを口にするけど、でも今も昔も変わらない、撮らずには書かずにはいられない熱い思いって、やっぱり「自分が世界を変えられるかもしれない」という仄かな希望だったりするのではないだろうか。

ドキュメンタリーの修辞学

ドキュメンタリーの修辞学

  • 作者: 佐藤 真
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2006/11
  • メディア: 単行本


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