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見えないもの、聴こえないもの [映画・ノンジャンル]

美学校でホルへ・サンヒネスの『革命』と『鳥の歌』を観た後アテネに移動しダグラス・サークの『There's Always Tomorrow』。しかし私はサーク好きではない。未見の傑作が多い可能性もあるが、世界観のようなものが好きになれないので本数を観てもそう変わらないのではないかと思い、観ていない。しかしこの映画はわりと楽しめた。前日のマンキーウィッツの『他人の家』の理解度(まぁコンディションがあまり良くなく、途中で意識を失ってしまったこともあるのだが)に較べ、英語のヒアリング能力の違いはないのに筋がほとんど追えることに驚く。全部聞き取れるわけじゃないのに何言っているのか大体分かる。「映像の人」とはこういうことなのかと納得した。クリス・フジワラ氏の指摘通り、「見えないものが重要」なマンキーウィッツと、ある意味で正反対、「見えるものが全て」な映像世界を、堪能した。モノクロの世界の中でキャリアウーマンを演じるバーバラ・スタンウィックは悪くない。

がしかし、いくら筋立てが全て追えなくても、個人的な強い興味は『他人の家』の方へより強く持つのだ。マンキーウィッツの作品の持つ「見えないもの、隠されているもの」に惹かれてしまう。そもそも、「表象されているものが全てだ」という諦念は、私はあまり共有しない。ホルヒ・サンヒネスの『鳥の歌』だって、ラスト近く、せっかくインディオたちの鳥の歌の祭りを撮影させてもらえた映画製作者たちに、肝心の「鳥の歌」が聞こえない、録音できない、あのシーンがなかったら、この映画は、ここまで面白くならなかっただろう。ポストコロニアリズムのテキストで終わってしまいそうなこの映画を、あのシーンが、世界に向かって開かせているように思う。

見えないものに目を凝らし、聴こえないものに耳をそばだてること。私にとって多分、映画を観るとはそういうことだ。私に限って言えば、映画と世界との闘いで、映画が勝つわけではない。映画は、世界に対峙し得るもので、見えないものが見えそうになる、聴こえないものが聴こえそうになる、そういう装置であってほしい。そしてきっと、それ以上のものではない。

最後に復習も兼ねてドゥルーズ『シネマ2』からマンキーウィッツについて。

マンキウィッツにおける時間は、まさにボルヘスが『八岐の園』において描写した時間である。それは空間ではなく、分岐する時間であり、「時間の網の目は、たがいに近づき、分岐し、交差し、あるいは数世紀にわたってたがいに無縁であり続け、あらゆる可能性をはらんでいる」。フラッシュバックの根拠はまさにそこ、時間の分岐のそれぞれの点にある。回路の多様性は、したがって新しい意味を帯びる。単に、複数の人物のそれぞれに一つずつフラッシュバックがあるだけでなく、フラッシュバックが、複数の人物(『裸足の伯爵夫人』においては三人、『三人の妻への手紙』では三人、『イヴの総て』では二人)に属するのである。そして、単に複数の回路が相互に分岐するだけでなく、それぞれの回路が、枝毛のようにみずからを分岐させるのである。

一方では、小説的要素、物語が、記憶の中に現れる。実際、記憶は、ジャネの公式によるならば、物語行動なのである。その本質そのものにおいて記憶とは声であり、その声は、語り、呟き、囁き、そして起こったことを報告する。フラッシュバックにともなうオフ・ヴォイスは、そこからきている。マンキウィッツにおいて、しばしば記憶のこの精神的役割は、多かれ少なかれ彼岸に関係する存在に委ねられる。たとえば『幽霊と未亡人』の幽霊、『うわさの名医』の亡霊のような人物、『探偵<スルース>』の自動人形である。『三人の妻への手紙』では、第四の女友達がおり、決して姿を現すことはなく、一度だけかろうじてかいま見える彼女は、他の三人に、自分が彼女たちの夫のうちの一人(だが、それは誰か?)と出奔することを知らせた。そして三つのフラッシュバックをつかさどるのは、彼女のオフ・ヴォイスなのである。


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