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バベルー愚かさについての映画 [北米・南米映画]

『バベル』について書こうと思っていて、書くんならちゃんと書こうと思い、未見だった『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を観たり、『アモーレス・ペロス』も観直そうなどと思っているうちに、全然時間が取れそうもないので、とりあえず今思っていることだけ書くことにする。

『バベル』のラストはとても感動したし、好きか嫌いかと言ったら好きな映画だ。どちらかというと擁護したい。どちらかというと、という留保がつくのは精巧な映画だとかよくできた映画だとは全く思わないからだ。ヤスジローが現地ガイドにあげたライフルが銃撃事件の発端だという繋がりは、世界経済への日本の関わり方のメタファーだと深読みしたとしても無理がありすぎるし、各エピソードの筋運びだってむしろ単純極まりないものだ。暗喩に満ちた各パートのエピソードの重層性がだんだんと効いてくる『アモーレス・ペロス』のような重厚さとはほど遠い。

『アモーレス・ペロス』よりも優れているものは俳優で、ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、菊池凛子、役所広司、二階堂智、みな素晴らしい。俳優の存在感を生かすために脚本を単純にしたのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。特に素晴らしいのが菊池凛子で、障害者と健常者との壁、孤独、それを感じた時のもどかしさや攻撃性などを体当たりで表現していて感銘を受けた。そしてそんなチエコを愛情で受け止める役所や二階堂の存在が観客の心に灯をともす。

夫婦仲を修復しようとモロッコくんだりまで来るブラピ夫婦も、遊び半分で発砲してしまうモロッコの兄弟も、子供たちを連れてメキシコ国境を越えてしまうベビーシッターも、孤独を性的な方面でしか解消しようとしないチエコも、みな呆れるほど愚かだ。「愚かである」ということで繋がっている。がしかし、各エピソードを「紋切り型」「人種的ステロタイプ」と言い切ってしまうのは何か違う気がする。「賢さには種類があるが、愚かさはみな似ている」のではなかったか。実際、彼らのような人々は沢山いて、今日もどこかで事件に巻き込まれたりしているのだろう。私が言いたいのは、この映画では「愚かさ」を表現したいがためにあえて人物がステロタイプなのではないかということだ。

この映画が嫌いな人は「愚かさ」が嫌いな人なのではないかと思う。確かに犯罪や戦争や、世間の悪は「愚かさ」によって引き起こされることが多いし、映画でそんなものを見たくない、という言い分も分からないでもない。自分は勉強して賢くなり、そんなものとは一切関わらないという選択肢も別に否定はしない。しかしそれが「映画の豊かさ」と何か関係があるのだろうか。

私はラストシーン、東京の夜景をバックに佇むチエコの裸のよるべなさにつられ、ヤスジローと一緒にチエコを抱きしめた。つい抱きしめてしまってから、その小動物のような柔らかさ、暖かさに驚いた。あなたも抱きしめなかっただろうか。それはもはやチエコであってチエコでない。あなたは一体何を抱きしめたのだろう。私は何を抱きしめたのか、ずっと考えた。今でも考えている。チエコの裸の感触はいつまでも私の中に残り、灯をともす。

「愚かさ」で世界を繋ぐこと、登場する全ての俳優に「愚かさ」を表現させること、そんな無謀な試みに成功してしまったアレハンドロ監督はやはり何よりも「映画」を信じているのではないか、とそんな気がした。


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DSilberling

こんにちは。「バベル」は映画としてとても良くできていましたね。こういう映画がきちんと評価されるようになると嬉しいのですが・・
by DSilberling (2007-06-10 20:58) 

miyukinatsu

コメントありがとうごさいます。ただまぁ『バベル』は批評家筋には概ね評判が良かったのではないかと思いますが・・。日本人的にも日本を舞台にされて嬉しくないわけもないですしね。『ロスト・イン・トランスレーション』のようなありがちな日本批判もなかったし。二階堂智が飲み屋で一杯ひっかけるシーンは、イカニモ「映画の中の日本」という感じでグッときてしまいました。
by miyukinatsu (2007-06-10 21:24) 

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