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訃報 佐藤真監督 [ドキュメンタリー]

下高井戸シネマに『まひるのほし』を観に行ったら療養中のはずの佐藤監督がいらしていて、映画が終わった後の何ともいえず暖かな雰囲気の中で雑談した時のニコニコとした笑顔や、『SELF AND OTHERS』を観た後に何か重いものを残されてしまったようなずっしりとした感じや、今はいろいろと思い浮かべるばかりでまとまった言葉になりません。そもそも佐藤監督の映画自体、私には言葉にすることすらできなかったのですし。今は静かにご冥福をお祈りします。
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エンロンー巨大企業はいかにして崩壊したのか? [ドキュメンタリー]

地球温暖化を扱ったドキュメンタリー『不都合な真実』を観た後に、「これは人類みなが観るべき映画だ」というような評を読んで、「そうか?」と思ってしまったのは、映画の出来云々よりも、既に知っていたことが多かったから。しかしこの『エンロンー巨大企業はいかにして崩壊したのか?』は、少なくとも日本人なら観るべきだ、と言っても過言ではないだろう。エンロン社の幹部や実際に起こったことも勿論怖いが、何よりも一番怖かったのは、こんなに大きな事件なのに、知らなかったことが多かったこと。しかも私は毎日朝日新聞読んでるし。

「(詳細な報道がされなかったのは)メディアの自主規制的な意志が働いたのではないかと思います。なぜなら、日本も現在の構造改革路線を進めていけば、同じような事件がいつ起きてもおかしくないという話になってしまうからです」(「ダカーポ」610号 ジャーナリスト・斎藤貴男氏)

という談話を逆算して考えると、ということは、2001年に起きたこのエンロン事件をもっと詳細に報道していればライブドア事件は起きなかったということだろうか? この映画でもエンロン幹部とブッシュの癒着という話が出てくるが、『華氏911』を観た時も思ったのだが、ブッシュに関する悪い話って、どうして報道されないんだろう、とか。いろいろ考えると怖すぎ。ドキュメンタリーを観るしかないと思うよ、とりあえず。

エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか? デラックス版

エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか? デラックス版

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2007/05/25
  • メディア: DVD

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ダーウィンの悪夢 [ドキュメンタリー]

この映画はお正月に観たのに書くのが遅くなってしまった。アフリカ・タンザニア湖周辺で起きている事象、それが象徴するグローバリゼーションに衝撃を受けたのも事実だが(観た当初は二日に観たので「これぞ人類が観るべき初夢かも」とまで思った)、何かこう絶賛するのに躊躇するものがあって、少し書きにくかったのだ。西谷修氏編の「グローバル化と奈落の夢」を読めば、よりグローバリゼーションとその問題点、アフリカの悲惨な現状に対して理解が深まるだろう。しかし、この映画に対する疑問点も同時にはっきりしてしまう。
例えば、「グローバル化と奈落の夢」にはアメリカのフォト・ジャーナリスト、イヴリン・ホックスタインの写真と、彼女を含んだシンポジウムの採録がある。アフリカ・ダルフールを中心に撮影された写真は、栄養失調で骨と皮だけの子供、死亡する妊婦、姦通罪で投獄された少女、夫の暴力によって痛めつけられた妻、兵士によってレイプされた子を産み夫に離婚された妻、など痛ましい(主に女性の)写真が続く。誰の発言だったか忘れたがそれらの写真に「祈り」が込められている、というようなことを言っていて、写真の批評としてどうかは分からないが、感想として妥当なものだと私も思う。それは彼女が女性だからこそその痛みに共感しているだろうこと、怒りによって撮影されていること、それにより「撮影行為」そのものが崇高なものと感じられるからであろう。
『ダーウィンの悪夢』にはその「共感」がない。よって「撮影行為」が崇高なものだと感じられる瞬間がない。監督・フーベルト・ザウパーはオーストリア人でアフリカ人ではないし、一晩一ドルで働く夜警にもロシア人パイロット相手の娼婦にもナイルバーチの残骸(貧しすぎて身を食べられない現地人たちは頭と尾を干して揚げて食べる)のアンモニアで目が溶け落ちてしまった中年女性にも共感する要素がないのだ。そして監督本人が彼・彼女らに安易に感情移入するほど情緒的ではないことがなんとなく観客にも伝わってくる。
そうすると映画のみならず戦場ジャーナリストなどにも昔から突きつけられてきた問題、例えば「今死にゆく兵士を撮る代わりに何故助けないのだ」という倫理の問題が浮上してきてまうわけで、この問いは実際「グローバル化と奈落の夢」の中に採録されたザウパー監督を含めたディスカッションの中で、監督本人によって自問されている。監督はこう発言している。「私がやりたいことは、あまり近づく機会のない現実世界に観客を放り込み、彼らを怒らせることです。映画制作者の私に対して怒りを感じることを期待されていますし、それは映画を製作する上で意図していることでもあります。接着剤を嗅いでいる貧しい子供たちや殴り合っている子供たちを撮影している場合ではないだろうとか、フランスから来てフランスに帰って平穏な生活をする人間に何ができるんだと、観客の誰かが思ってくれればいいのです」
観客に不快感を与ええること、観客を怒らせることこそが目的だったと明快に語るザウパー監督。ドキュメンタリー界のハネケ?(同じオーストリア人だし)などと茶々を入れたくもなるが、しかしその明快さが少し引っ掛かるのだ。彼が同じディスカッションでテレビに対して批判している部分も、あまりにも明快すぎてかえって引っ掛かる。「私のようなアーティスティックな映画人たちは、豊富な資金を持つテレビという機械をどうにかして打ち負かして、その資金の一部でテレビらしくない番組をつくるべきだと思っています」。このような発言が続いてしまうと、ザウパー監督はどうやら、自分がアーティスティックで、グローバリゼーションには全く加担していなくって、システムとしてのメディアからも自分だけはすり抜けていると確信しているのではないか、という気がしてきてしまう。
そしてその罪悪感のなさが、高みから物を見るような描写の仕方が、システムとしてのメディアとてザウパー監督本人の努力だけで(超人的な努力を監督はインタビュー等で語るがそれは画面からはあまり伝わってこない)簡単にすり抜けられるようなものなのだ、と観客に思わせることが、結果的にこの映画から荘厳さや空恐ろしさを奪ってしまっている気がする。
まぁそれさえも意図したものだと言われてしまったらおしまいなのだが、私は原一男監督だったら、森達也監督だったらどう撮るだろうということを少し考えた。「私」的なもの、「私小説的なもの」を大事にしてきた日本の中堅ドキュメンタリー作家たち。自分の顔や手ブレや迷いや間違いや汚点も、カメラの前に晒すことを厭わない作家たちの面白さを、結果的に痛感することになってしまった。
クレバーすぎるのも考えものなのかも・・が、とりあえず必見でしょう。「グローバル化と奈落の夢」も良い本です。

グローバル化と奈落の夢

グローバル化と奈落の夢

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: せりか書房
  • 発売日: 2006/08
  • メディア: 単行本


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ルート181/ミシェル・クレイフィ監督、エイアル・シヴァン監督 [ドキュメンタリー]

風邪が治りきっていなかったのか油断したのか、うたた寝をしてしまったおかげで、「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー山形in東京」の初日、2005年度の大賞を受賞した『水没の前に』、映画館に駆け込んだのは上映開始五分前で既に満席、なんと通路に座って観るはめになってしまい、コンディションが悪かったせいか幾度も睡魔に襲われあまりピンとこず、同じく2005年度の最優秀賞を受賞した『ルート181』も、イスラエルの実現しなかった境界線を旅し土地の人にインタビューした四時間半の作品と聞いただけで、『ショアー』を英語字幕のみで観た苦行のような経験が思い出され、まぁつまらなかったら寝るか帰るかしよう、くらいの気持ちで臨んだのだ、実は。
しかしロードムービーの形を取ったこの作品は、美しい風景のための創意や、あざとすきる演出があるわけでもないのに、四時間半全く退屈することがなく、最初から最後まで画面に惹きつけられた。パレスチナ人に対し非道なことを喋り続けるユダヤ人の老人が表情を曇らせ「君たちの態度は変だ」と主張し始める瞬間、まだ年端もいかない少年がイスラエル人かパレスチナ人か自分のアイデンティティーを笑いながら問いながら、一瞬表情に緊張が走る瞬間、撮影者/質問者は映像内にいっさい出てこないのだが、撮影対象の反応によってその存在がちゃんと浮かび上がるようになっており、それは「パレスチナ人」でも「イスラエル人」でもない、そう、つまるところ物見高い私たちそのものなのだ。
ちょうどオウム真理教元教祖麻原の死刑が確定し、それに伴い関連施設の一斉立ち入り捜査のニュースなどが目に入っていた時だった。しかし当たり前のようだがオウム真理教や麻原を一貫して悪として扱い、サリン事件の被害者や被害者家族の憤懣やる方ないコメントや、二度とこんな事件を起こさないためにと文字を連ねた記事を読みながらも、心のどこかで、「ちょっと待てよ」と警笛が鳴ってしまうのは、きっと森達也監督の『A』、『A2』を観たせいであろう。しかし警笛が鳴ったからといって、そのもやもやとしたものが何か言葉のような形になるわけではなく、そのことについて考える時間-遅延-を生むだけだ。
そういえば『A』だったか『A2』だったか忘れたが、オウム反対の住民運動をしている中年男性が、質問に答えながらふと顔を曇らせ「あんたどこの局? オウム側の人?」と森監督の素性を怪しむような質問を投げかけるシーンがあった。それはそのままミシェル・クレイフィ監督とエイアル・シヴァン監督の素性を怪しむユダヤ人老人の姿とダブる。
一見非常に政治的な映画に見えてしまうこの映画も、フランスでは上映反対運動が起こり、その中には敬愛するアルノー・デプレシャン監督がいたり(彼ら十二人の文化人の主張によれば、この映画には『ショアー』の悪質なパロディが含まれているという)と、考えなければいけないことは多分山ほどあるのだろう。しかしパレスチナ-イスラエル問題にあまり明るくない人でも、この映画の視線の明晰さ、優れた強いドキュメンタリー作品だけが持ちうる遅延の時間の贅沢さは、十二分に受け取ることが可能であろう。必見(あと二回上映ありhttp://www.cinematrix.jp/dds/2006/08/181.htmll)。ミシェル・クレイフィ監督・エイアル・シヴァン両監督の他作品の上映も求む。

ルート181・パレスチナ‐イスラエル 旅の断章

ルート181・パレスチナ‐イスラエル 旅の断章

  • 作者: ミシェル・クレイフィ, エイアル・シヴァン
  • 出版社/メーカー: 前夜
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本


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