『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』インタビュー [ドキュメンタリー]
ビッグイシュードキュメンタリー特集 [ドキュメンタリー]
ビルマVJ 消された革命 [ドキュメンタリー]
沈黙を破る [ドキュメンタリー]
精神 [ドキュメンタリー]
映画を観ている最中は、私は泣かなかった。ただただ、自分の赤ちゃんを殺してしまった女性や、自分の子供を養うために体を売った女性の告白を聞いていた。目を見開いて彼女らや彼らの顔を見ていた。映画を観終わって、帰途の電車の中で、もうこの世を去ってしまった人や、まだ病と闘っている人が、この世界の何処かにいるんだなと思って、じんわりと涙が滲んできた。それは決して彼らに対する安っぽい憐憫ではなく、「世界」を実感した重みによる涙だったと思う。この映画を観たことは、「彼ら」と私とを隔てている、何かをも溶解させるような経験だったのだ。偉大な監督による、只の、「観察映画」。ただし、バイアスや偏見なし。
http://www.laboratoryx.us/mentaljp/index.php
『靖国』上映開始 [ドキュメンタリー]
「論座」でも「映画芸術」でも、『靖国』のドキュメンタリーとしての出来に疑問を呈している筆者がちらほらといるが、彼らの主張は主に「長い」「焦点が定まらず、間延びしている」(長谷部恭男氏/論座)、「ユルい。ドキュメンタリーは痛いところを突かないといけないのにそれができていない」(寺脇研氏/映画芸術)などというもの。これは褒める論者が指摘する「作者のナレーションを排し、観客(カメラ)に向かっての被取材者のメッセージも排したその構成は、選び抜かれたハダカの事実の羅列だけで、人々に衝撃を与え、無知を悟らせる力を持っている」(暉峻創三氏)の裏を返せば、のようなところもあると思う。
今一歩踏み込めていないのはやはり監督が日本に長く住んでいる中国人だからということが大きいのではないか。日本に住んだことがなく、愛も感じていなかったのならもっと踏み込んで、もっとそれこそ右翼の方々が怒るような映画が撮れたかもしれないが。原一男氏は「中国人監督だからこそ、なし得たもの、新たに切り開いたものとは難だったのか。」(朝日新聞5/3)と問うが、私はそもそもこの映画を観た一番の感想は「なんで日本のドキュメンタリストが撮らなかったんだろう・・」というもの。その意味では、勿論原氏のように問いてもよいのだが、「日本の映画監督が撮らなかったのは情けない。李監督にはありがとうと言いたい」(朝日新聞5/3)と言う原将人氏の方がモラル的には正しい気がする(勿論ドキュメンタリストにモラルを求めているわけではないのだが)。
しかし全く撮らなかったわけではないですよね。土屋豊氏の『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか? <96.8.15靖国篇>』があります。未見だけど・・。
『靖国』上映中止について [ドキュメンタリー]
その上映中止に至る経緯を説明する文書はhttp://www.spoinc.jp/company/yasukuni.pdf。昨日の朝日新聞で森達也氏が書いていたように、ほとんど「放送禁止歌」の世界だな、と思う。「放送禁止歌」は本当は誰も禁止なんてしていなかった。「「ここから先は危険」という標識を立てて、その内側にこもることで安心する。標識はそこかしこに立てられ、やがて禁止が独り歩きを始める」。
同じく朝日新聞では、実際に上映に抗議した人たちの談話も載っている。「表現の自由と言われても、許せないものはある。映画館だって、それでいいと思えば断固上映すればいいわけだよ」。そしてこんな風に締めくくられる。「抗議をする自由もあるし、抗議を受け付けない自由もある。言論の自由と思っています」。
監督の談話も載っている。「3月12日の国会議員向け試写会が、転機だったように思う。足並みをそろえたように、劇場側の説明が不明瞭になった。本当に、周囲への迷惑という表向きの理由だけなのか。だれが中止を決めたのかよく見えない」。
そしてこんなものまで見つけてしまった。オーマイニュースの記事「『靖国 YASUKUNI』は映画と呼べるのか」http://www.ohmynews.co.jp/news/20080404/23048。この記事のガックリきちゃうところは、こんな大仰なタイトルをつけておきながら、記者が映画を観ないで書いていること。『靖国』が映画としての体をなしていない根拠も、産経新聞の阿比留氏のブログhttp://abirur.iza.ne.jp/blog/の4月1日のログを参考に書いているらしいのだが、当の阿比留氏も映画を観ているのかどうか今一つはっきりしない(観て書いているとはあまり思いたくない・・)。靖国神社の許可を得て撮影していないとか、メインキャストの一人、日本刀の作り手刈谷直治氏が自分が取材された部分の削除を求めているとか、パンフレットの表紙に使われている自衛官がそのことを一切知らされていなかったとか。
映画好きでない方々っていうのは、面白いドキュメンタリーを観たいとかって、あんまり思わないんだろうか。とにかく映画っていうのは、観ないと、観られないと、話にならない。左も右も関係なく、映画好きだったら、面白いドキュメンタリーを観る機会を潰されてしまったことに対して、怒るべきだ。「右翼がうるさいから、上映すんのやめとこうかな・・」と思われる前に、「映画バカがうるさいから、上映しなきゃ・・」って思われないと。そのために何をすべきか、真剣に考えるいい機会ではないだろうか。
靖国 YASUKUNI [ドキュメンタリー]
発端は自民党の稲田朋美議員が、この映画に公的助成金が出ていることを疑問視し、文化庁に問い合わせをしたこと。3月12日には国会議員向けの試写会が開かれ、その旨新聞などにも取り上げられたことをきっかけに、実際に街宣車などによる抗議を受けた映画館もあったようだ。当の稲田議員は今朝の朝日新聞では「一部政治家が映画の内容を批判して上映をやめさせるようなことは許されてはいけない。今回、私たちの勉強会は、公的な助成金が妥当かどうかの一点に絞って問題にしてきたので、上映中止という結果になるのは残念。私の考え方とは全然違う作品だが、力作で、私自身も引き込まれ最後まで見た」と語ったとされている。
ということはまだマスコミと議員向けの試写しか行われていない段階なので、実際に映画を観てはいない人が抗議しているということなのだろうか。私自身は幸運にも試写で観ることができ、同じく力強く、観客に考えさせる力を持った作品だと思ったが、今回のことで特に強烈だった劇中のあるシーンを思い出した。靖国神社の式典の最中に乱入し、首相の靖国参拝反対を訴えた青年が、取り押さえられ、コワモテの中年男性に小突かれながら、じりじりと境内の外に追い出されるシーンがある。その中年男性は怒りで顔を真っ赤にしながら「中国人は中国へ帰れ!!」と繰り返す。だって中国人って別に本人だって言ってないし、そんなの分からないのに・・。
真実を確かめる間もなく怒りが極端な行動に結びついてしまうのは、流された夥しい血の記憶のせいだろうか。その記憶が薄い私たちこそ、そういった極端な行動に走らないためにも、様々な靖国神社を描いたこの映画を観るべきなのではと思うのだが、そういった機会すら奪われてしまうのは本当に残念だと思う。
ミリキタニの猫 [ドキュメンタリー]
今日は評判の良い『ミリキタニの猫』をユーロスペースで。確かに、自暴自棄さとユーモアが混在したミリキタニ氏のキャラクターは魅力的で、監督のリンダとの掛け合いも暖かいものに満ちていて、大傑作とは言わないまでも面白いドキュメンタリーになっていると思う。収容所のことや9.11も、これみよがしではなくサラリと、でも重みがちゃんと伝わってくるところが監督のセンスの良さを感じる。
そういえば、「山形ドキュメンタリー映画祭2007前夜祭」で何本か観た時も、大上段に政治やら社会情勢について撮ったものよりも、家族や自分が関わった人たちを、静かに撮った作品に感銘を受けた。スティーヴ・ジェイムスの『スティーヴィー』、ヘルマン・クラルの『不在の心象』、メリッサ・リーの『夢の中で』、『愛についての実話』など。撮る側と被写体の関係性が、或いはその変化がスリリングな映画。これは私に限っての傾向なのか、それとも近年のドキュメンタリーの傾向の一つなのか。
話がずれてしまうけれど、台風が去った後、テレビで、多摩川を猫と一緒に流されていくホームレスのおじいさんを見た。新聞にも載っていたけどおじいさんは「コイツ(猫のこと)を助けなきゃって必死で・・」とか言っていた。佐藤さんのことで落ち込んでいた時だったので、おじいさんも猫も助かってとてもほっとして、少し元気になった。ミリキタニ氏も路上で書いていたのはあんまり可愛くない猫ばかりだった。リンダのところにも猫がいて遊んだりしていた。ここは8年くらい、周りで精神疾患の話を聞くことが多くなったと感じる。社会のせいだと断言できるほど知見がないのだが、「ミリキタニの猫」のようなものが意外と大事だったりするんじゃないかな、なんて少し思う。
とはいえ、ドキュメンタリー [ドキュメンタリー]
を観るのは止められない。未見だった『ヨコハマメリー』をDVDで。しかし白塗りで背骨が曲がったメリーさんは勿論、ビジュアル的には胸を締め付けられるのだけれど、「メリーさんはああだった」「メリーさんはこうだった」という何人かの証言を聞いているうちに、映画が凡庸さの方に摺り寄っていくようなもどかしさを感じざるを得ない。そしてラスト、養老院で普通のおばあさんのように静かに暮らしているメリーさんに会いに行くシーンになって、監督の意図がすっかりよくわからなくなってしまう。
ちょっと題材に寄りかかりすぎじゃないか。まだ監督は若い男性らしいので、それ以上の突っ込みようは難しかったのかもしれないけれど、これじゃあ「パンパン」や「娼婦」が一般人の哀愁をそそる記号でしかない。それ以上をやるのが映画監督の仕事ではないだろうか。
「牛腸茂男の眼差しについての映画を作るにあたって、自分なりにいくつかの決め事をした。その一つが、関係者のインタビューは撮らないということであった。牛腸の写真が持つ眼差しの謎を映画の中で友人や遺族の言葉によって証言させてしまうと、どうしてもその言葉が解答になってしまう。彼の写真は、言語表現を超えた一瞥の力にある。それを証言という言葉でまとめあげてしまったら、凡庸のそしりを免れないドキュメンタリー映画になってしまう。」
上記は『SELF AND OTHERS』について佐藤真監督が書いたものだ。勿論題材が違うのだから、佐藤さんがやった方法を『ヨコハマメリー』でもやれば良かったのだなどと単純かつ乱暴なことを言うつもりはない。しかし佐藤さんならメリーさんを養老院まで撮りに行くなんてことは少なくともしなかっただろうな・・・・。