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標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録 [書評]

『ミュンヘン』の原作本を本屋で見つけついつい購入。面白かった! 特に冒頭から70頁くらいまでの、ほとんど映画には直接出てこないアブナー(原作ではアフナー)の父や母の描写、アブナーがモサドのために仕事をするようになったいきさつなどが面白い。映画も原作も決して明るい話ではないが、アブナーのキャラクターの魅力が大きかったことに改めて気付く。特に原作はジャーナリスト、脚本家などで生計を立ていてたジョージ・ジョナスが、アブナーのモデルに当たる人物を出版元から紹介され、直接取材と裏を取るための現地取材によって話を組み立てているため、アブナーの思考回路、強情でありながら情に厚く、大胆不敵でありながら脆い人間的魅力がよりよく分かるようになっている。エージェントの訓練方法や習性など細かい部分が分かるのも小説ならではで面白い。
映画が原作よりも強調していると感じるのは、テロにより無関係な人々が殺されたり怪我をしたりすることで、そこに9.11以降のスピルバーグのメッセージを読み取ることはたやすいことであろう。映画ではテロリストの幼い娘が爆弾で吹っとばしされかけたり、ホテルで隣り合わせた新婚夫婦が大怪我をしたり、一瞬でも心を通わせあった若者(アリ)を殺さなければいけなかったりするが、どれも原作にはない。スピルバーグの(或いは脚本家の)メッセージといえば聞こえはいいがまぁ少し商売魂のような気がしてしまったりもする。しかし相違点はそう多くない。5人のキャラクターもほぼ忠実だし、カール、ロバート、ハンス、女殺し屋の行く末などもそのまま。忠実でありながら上手く脚色しているな、という印象。
三合目から九合目までは細部を抜かしほぼ映画と同じなので少し退屈する人もいるかも。しかしラストは映画と違うのだ。私はこちらのラストの方が好きだった。あくまでテロの恐ろしさを訴えたいのだったら腰砕けなラストかもしれなかいが、私は個人は大義や組織に押しつぶされるほど弱いものではないと思っている。そう思いたいのかもしれないけど。ただそれって人間の歴史はそのために存在すると断言できるほど大層な問題じゃないか? スピルバーグの意図もその筋で解釈されるべきではないか。
この本自体、真偽をかなり疑われ、この本とは違う事実を提示する類書も出ているよう。『ミュンヘン』への遠い旅はまだまだ続くようだ・・(ってヲタク・・)。

標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録

標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録

  • 作者: ジョージ ジョナス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1986/07
  • メディア: 文庫


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村上春樹をめぐる冒険 [書評]

状況は整ったのに、ロードショーに行く気がしない。アカデミー賞取った『クラッシュ』も、話題の『ブロークパック・マウンテン』も『シリアナ』も、勿論『マンダレイ』も、チェン・カイコー好きなのに『PROMISE』さえあのヘンな王冠みたいのにメゲて観る気せず。なんか疲れそうなんだもの・・。風邪と引越しのドサクサに紛れてBS2で観た『カラミティ・ジェーン』と『オール・ザット・ジャズ』は面白かったなぁ。新奇なテーマや、練りに練った脚本や、あっと驚くCGや、観客を奈落に突き落とすラストや、巧妙な演出なんてなくたって、愛すべきキャラクターがちゃんと動いていれば、そこにちゃんと人間が描けていれば、映画なんて面白いはずなのにね。
内田樹氏のブログhttp://blog.tatsuru.com/で、村上春樹の生原稿を古本屋に売ってしまったのがヤスケンだということを知る。朝日新聞では名前まで出てなかったので、もっと有名じゃない編集者なのかと思っていた。内田先生のコメントもなかなか面白いが、私はヤスケンのことをそこまでは悪く思えない。「偉そうでない」編集者になんか逢ったことないし、自分が編集やっていた時だって偉そうじゃなかった自信なんてないし、そもそも「管理」が重要な比重を占めるお仕事なのだから(ページに穴が開いたら執筆者も干されるかもしれないけど、なんとかしなきゃいけないのは編集者なのだから)、執筆者を恫喝するために偉そうにするのもお仕事のうちなのだ。偉そうにしていても「そんなことも知らないの!?」とついつい憤ってしまうレベルの人も存在するので、それに較べたら、やはりヤスケンは本好きだったし編集者としての知識は持っていた方じゃないだろうか。
実は去年の秋頃、最近の村上春樹の著作をまとめて読んだ。『スプートニクの恋人』とか『神の子どもたちはみな踊る』とか『アフターダーク』とか。人に大推薦するかというと微妙なのだけど、通勤電車の中でそれらを読んでいる時間が幸福だったことは確かだ。内田氏が言う「村上春樹に対する集合的憎悪」に関しては、「洋物(アメリカかぶれ?)」「なんだかんだ言って、モテる男性主人公(読者は当然村上氏本人がかぶる)」「キャラクター(かえるくん?)」など、むしろ一つ一つはどうでもいい細部が積み重なって反感や憎悪に繋がっている気がしないでもないが、私が「村上たたき」の反論というか槍玉にあげるとしたら、相応しいのは癌に侵されながら日本の代表的作家の生原稿を古本屋にたたき打った編集者なぞではなく、蓮實さんら村上春樹をみそくそに批判した批評家たちだと思う。

神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/02
  • メディア: 文庫


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おぞましいものー桐野夏生 [書評]

校正仲間たちとの忘年会の待ち合わせという浮き足立ったシチュエーションも勿論関係していたのだろうが、そのアイドル本みたいな記事見出しを新聞の広告で見て少し引いていた、小説新潮別冊「The COOL!  桐野夏生スペシャル」を紀伊国屋で見かけパラパラと見ていたら欲しくなり衝動的に買ってしまう。
実は「残虐記」以来桐野氏の勤勉な読者ではなくなってしまったのだが、「新潮」の連載「東京島」シリーズや先日から始まった朝日新聞の連載小説「メタボラ」を読む限りでも、作風の変化は明らかだ。端的に言って、美人でクールな女探偵ミロのような女性が主人公になることはもうほとんどなく、男性が主人公になることが増え彼らの欲望がおぞましく愚かしく描かれる。
しかしその変遷の気配はすでにミロを描いた最後の作品である「ダーク」の頃に見られていたのであって、私は「ダーク」を読んだ後「すごい。「オバサン文学」の傑作だなぁ」などと思っていたのだが、私は勿論「オバサン」などという言葉やその言葉を使う人は嫌いなのだけど、シニフィエがなければシニフィアンもないのだから、フランスにマダムが存在するように日本にオバサンが存在することも事実といえば事実なのであって、生きがいとなる仕事を持たず家庭に絶望した中年女性の悲しみや「飛んで」しまう様を描いた傑作が「OUT」だったとしたら、「ダーク」のミロはもう「ぶっ飛んでしまって」いて、世間体や常識を捨てひたすらアナーキーに自分の欲望や生理に忠実に生きるミロはむしろ爽快だった。
「The COOL!  桐野夏生スペシャル」の魅力は他の作家によるオマージュ小説やエッセイも悪くはないのだが、なんといっても桐野氏の写真に尽きるだろう。大塚寧々と見間違うほどの表紙を初めとし、高校、大学など若い時の写真が本当に美しく、「なーんだ、「ローズガーデン」は実話だったんじゃ?」などと、小説の登場人物を作者と同一化するのがいかに馬鹿げたことか分かっていながら、ついつい呟いてしまう。
このムックの中で斎藤環氏はその「「関係の科学」としての桐野文学」という桐野夏生論を発表し、冒頭で「桐野夏生は「関係」を書く。」と言い切っている。なんかどこかで聞いたことあるなぁと思ったらドゥルーズが「シネマ」でヒッチコックについて似たようなことを言っていた。桐野夏生とヒッチコックか・・表現者として脂が乗ってきてからおぞましいものに向かったところは似ているかも。おぞましいものが単純に表現者としての意欲をそそられるのか、おぞましいものが満ちている世界に対して表現者として責任感を感じるのか、桐野氏は矢作俊彦氏との対談の中で後者であるような発言をしているが、さてヒッチコックはどちらだったのだろう。ヒッチコックも後者だったのだとしたらドナルド・スポトーにあんなに老醜を書き立てられる※1こともなかったかもしれないのにな、などと思う。
※1「ヒッチコック 映画と生涯」(上・下)のこと

The COOL! 小説新潮別冊 桐野夏生スペシャル

The COOL! 小説新潮別冊 桐野夏生スペシャル

  • 作者: 桐野 夏生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/09/28
  • メディア: ムック


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名付けられぬものーレベッカ・ブラウン [書評]

レベッカ・ブラウンの小説について、書こうとしたことは何度かあった。その度に止めてしまったのは、勿論少し勿体つけたということもあるのだけれど、何よりも言葉にしてしまうことに対する抵抗感が大きかったのだ。レズビアンであることを公言しているこのアメリカの作家(作者像は「ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち」で知ることができる)、しかし女同士の恋愛の機微を描くレズビアン作家などではなく、ジェンダーを超越することができる限られた一部の作家の一人であると言った方がふさわしいような気がする。
言葉にしてしまうことに抵抗感があったのは、言葉にしてしまうと一言で終わってしまうからだ、「良かった」。レベッカ・ブラウンの小説を読んでも、人間とは何か、人生とは何か、知ることはできないのかもしれない。彼女は日常生活や人生を上手く渡っていくこととはあまり関係のないことを描いている。それは、ガールスカウトで出逢った年上の彼女に胸ときめかすこと、エイズで死にゆく人たちの最後の毛布になること、愛する人の体を求めて裸のままパーティをうろつくこと、むしろ人々に眉をひそめられ、友達の一人や二人減るようなことかもしれない。感動でも、共有でも、道徳でも、友情でも、ゲームでも、罪でも、恋愛でさえない、未だ名づけられたことがないもの、それをレベッカ・ブラウンは「名づけないで」私たちに味わせる。私たちは味わうだけだ、未だ食べたことがない、極上の料理を味わったときのように、私たちは言葉を失う。

私たちがやったこと

私たちがやったこと

  • 作者: レベッカ ブラウン
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本


体の贈り物

体の贈り物

  • 作者: 柴田 元幸, レベッカ・ブラウン
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2001/02
  • メディア: 単行本


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映画批評家と映画研究者 [書評]

めぐりめぐって加藤幹郎氏が編集委員を務めるCineMagagine!no.9http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN9/index2005.htmlが発行されているのを発見。その中の「映画批評家の仕事」のなかの冒頭の一文「センスのない学者と学識のない批評家。これは世の習いである。」というのに爆笑。笑うところじゃないかもしれないけど、でもなかなかはっきりとは言いづらいこういうことを書いてくれるから加藤氏って大好き。
学識のない批評家・・。しかし映画批評家は本当に喰えないと思うので、他の仕事をしていたりしたら本を読む暇などなかなかないので私は同情的である。センスのない学者・・。センスと言ってしまうと生まれつきのもののように誤解されるかもしれないが、「今を生きている感覚」みたいなものがない人は確かにちょっとどうかなぁと思う。昔の映画監督をいくら研究しようとそれ自体は素晴らしいことだと思いますが、今の日本の社会情勢や世界情勢と全く隔絶したままで(研究が)終わってしまうんであればそれはちょっと・・。研究者も自分で学費や生活費を捻出しているような人は新聞や週刊誌など買う余裕もない人もいるんでしょうか。・・とするとなんだか「貧しさが全ての元凶」みたいな話になってきてしまいますが・・。「基金」を作るのが解決策? 
加藤氏は「学者は学会をついの住処にみずからの学識を臨界状態へもってゆく術を知らぬまま息絶え、批評家(クリティック)は学識のなさゆえに知に臨界(クリティカル)状態をむかえさせる歓(よろこ)びを知らぬまま朽ち果てる。そのような事態が世の習いなら、これは改革時である。」と文を結んでいる。私が言っても全然重みがないと思うけど全く同感です。
本文中に出てくる加藤氏の新刊映画論集「映画の論理―新しい映画史のために」(みすず書房)をまだ読んでないことに気付く。なんだかよく分からないけど少し慌てる。そろそろ本屋に行かなくっちゃ。
ところで、加藤氏が批判している梅本洋一氏の書評が、どこに掲載されていたものなのか知っている人がいたら教えてくれませんか。

映画の論理―新しい映画史のために

映画の論理―新しい映画史のために

  • 作者: 加藤 幹郎
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2005/02
  • メディア: 単行本


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